記憶は重要な感覚器だと思う。

楽しい曲は 

みんなで騒いだひと時があれば

もっと楽しい気分になるし、

辛い思い出が紐付いていると

悲しい旋律にもなる。

美しく芳しい香りは

日々や瞬間を呼び起こし

胸が締め付けられるような

匂いにもなる。

そして美味しい料理も

団らんの記憶が味を増幅することもあれば

複雑な食卓事情と対をなすと

箸が進まない一皿にもなる。

ジャンクフードも

思い出の景色が楽しければ

うれしい食べ物になる。

(そんな時、消化器官や腸ではなくて

脳の別のところで食べているように思う。)

表現者は

それを伝達する役割を持つものは

個々の経験が絡みあうそうした要素を

忘れてはいけないと思う。

感覚というのは

そういうわけで個々様々で

完全な共通項はない。

人の記憶から、

自分の似たそれを呼び覚まして

共感することはある。

でも、厳密に言えば

別のことで共感しているのかもしれない。

それぞれ感じて、大きな共通項としての

楽しい、嬉しい、悲しいが共有される。

人間と脳

体の記憶

人と記憶は複雑怪奇だ。

本当に美味しかったら、

その衝撃が凄ければ

乗り越えるかもしれない・・とも

思ったりするけれど

やはり記憶に辿り着く方が先だと感じる。

その後、その味に新たなメモが足されていく。

アップデートはされる、しかし

なかなかリセットはされない。

記憶は偉大であり神秘的だ。

無意識の領域に住んでいる。

いったん物理的な現象によって

ある程度顕在的に、意識を伴って

私たちの脳や体の感覚に

「記録」するけれど、

その後時間をかけて

潜在的な領域、

無意識の部屋に格納される。

それが

「記憶」ということではないか。

ノートに書いたことは忘れても、

インクは染みていて

次のページにも滲んでいたりする。

箱に入れたことを忘れていても

しっかり重さはあり、

その箱の中の別のものに

影響を及ぼしたりしている。

そんなことを

ぼんやり思い浮かべたある日の午後

澄んだ、やわらかな一粒の記憶を

与えられる存在であれたらと思った。

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